1638年、ガリレオは失明した。 - Tokyo in Picutre
Tokyo in Picture
・・・・・・・・・の5thワンマンライブ「Tokyo in Picture」に行ってきました。
このワンマンの目玉とも言えるのが、入り口付近に展示されていた「fixed variables」という名の巨大絵画です。
この作品は撮影不可だったので写真はありませんが、「・ちゃんに似た女の子5人(グラスをかけておらず、裸眼)が、マンションの入口まえで佇んでいる絵」でした。
ライブ後には一人増えて、6人になっていました。
会場で配られたパンフレット
この作品の製作年は 1638年-2018年。
2018年は、Tokyo in Picutureが開催された年。
では、1638年とは?
「1638年 絵」でGoogle検索したら分かったことと、そこから妄想したことを書きます。
近代科学の祖、ガリレオ
ガリレオ・ガリレイは17世紀の科学者です。
彼は、当時教会が唱えていた天動説に対し、地動説を主張し、異端審問にかけられました。
その際に発した、「それでも地球は回っている」という台詞はあまりに有名です。
ガリレオは、「自然を『観測』し、観測から結果を導き出す」という手法を発明しました。
それまで「理解不能で、畏れの対象」だった自然は、科学によって「理解し、制御する対象」になりました。
教会によって定義されていた「真実」は、観測と実験によって更新されるものになりました。
科学は技術を発展させ、技術は富に結びつきました。
人類は、観測によって、空前の力を手に入れることになります。
近代の始まりです。
物体の運動の研究をする時に(中略)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。
新科学対話
ガリレオは1638年に「新科学対話」を出版します。
この本では、「拡大・縮小」と「相似」という概念が紹介されています。
ドン・S・レモンズ著, 村山 斉, 倉田 幸信訳「物理2600年の歴史を変えた51のスケッチ」より。
いずれも、それまで勘に基づいて描かれていた絵を、数学によって記述する手法です。
ガリレオは、ある現象に対して仮説を立て、数学的演繹法によって結論を引き出し、その結論を実験による帰納法によって実証したのです。
この方法は、後に仮説帰納法として知られるようになった。それは実験の組み合わせで構成されており、近代世界が機械論的な性質を持つようになった萌芽はここにもあるのです。ガリレオは、本書を通して、デカルトと同様に数学のなかにこそ、自然そのもののしくみが隠されていると主張したのでした。
「理解&制御不可能だったものを、観測によって人間が理解&制御できるようにする」というガリレオのアイデアは、ひらめきと才能による「アート」とは違う、計量による「デザイン」を産み出し、工場で同じデザインの製品を複製する、大量生産を可能にしました。
1638年、失明
「新科学対話」が発表される前年、ガリレオは右目を失明します。翌年、1638年1月には左目も見えなくなり、完全に視力を失ってしまいました。
前述した異端審問によって地動説を放棄させられた「異端者」ガリレオは、失意の日々を送っていました。それに追い打ちをかけるかのように、光さえも奪われてしまったのです。
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。
(中略)
フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。
そんななか、口述筆記により書かれたのが「新科学対話」です。
ガリレオは、自身は二度とPicutreを見ることができないのに、いや、だからこそ、数学によって、Pictureを描こうとしました。
Inventions
1638年、「科学」を発明し、「観測」を始めたガリレオは、目を失いました。
2018年、「観測する側」から「観測される対象 = 自然」に還った・ちゃんは、絵の中で目を手に入れたのです。
参考文献
- ガリレオ・ガリレイ - Wikipedia
- 世界天文年2009:ガリレオの生涯 - ガリレオの年表
- 新科学対話
- 「物理2600年の歴史を変えた51のスケッチ」ドン・S・レモンズ著, 村山 斉, 倉田 幸信訳